霧が晴れていくように
リハビリに川沿いを歩いたりし始める。
マリートさんが死体が埋まっていると脅すんだけど、トレッドミルより外が好き。
大阪のルートより走りやすいし、川の水のせせらぎも気持ち良い。
スピリチュアルとか世界や宇宙の変化との対峙の仕方や在り方を今見直したり見つめないで、いつやるんだろう。
自分の与えられたミッションにイエスとノーが突きつけられていて、意外だけれど当然な結論が出た気もしている。
スピリチュアルな要素も星の動きや数字を見ること、神仏も修行的な生き方もヒーリングも、自分にとっては仕事にするものではなく呼吸みたいなもの。
息の仕方を教えたり、チェックすることは少なくとも私はビジネスと思えない。
それは自身の存在を活かす、溢れ出るもの、隠せないもの。
私にとって神聖さも宇宙の理も彼我の垣根を超えている。それを踏まえていかないと。
人の所作をジャッジする事なく、相手の所作をどう感じ、何故そう感じるのかみつめる。
その上で、自分ならどうするか、どう出来るかを見つめ続けていると凛と美しく、宇宙や神様に恥ずかしくない動きと行動が自ずから選択される。
気品ってそういう事かなぁと近頃感じる。
気高い、という言葉は気のエネルギーが周りに比べて高いということ。源氏物語の時代からそんな風に人びとはいろいろ感じて見つめてきたのだろうと思う。
気高さは生活の質を高めることから生まれる。浄化もそうだし、体を動かすこと、食べ物も。
私のエネルギーはそうやって磨かれている。
ほかの人はわからないけれど。
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